2019年5月2日 星期四

《神會和尚遺集》,全稱《胡適校敦煌唐寫本神會和尚遺集》;Wikipedia 陳垣日文版搞錯




神會和尚遺集》,全稱《胡適校敦煌唐寫本神會和尚遺集》。全一冊。民國十九年(1930)由上海亞東圖書館刊行。內分四卷,另有跋四首、神會傳一篇,及附錄一卷(即景德 ...




佛光大辭典 (慈怡法師主編)

神會和尚遺集

全一冊。全稱胡適校敦煌唐寫本神會和尚遺集。民國十九年(1930),上海亞東圖書館刊行。內分四卷,另有跋四首、神會傳一篇,及附錄一卷(即景德傳燈錄卷二十八之神會語錄三則)。係胡適自敦煌稿卷中發掘有關神會和尚之各種資料,加以並比校勘,另又與其他傳世之典籍如景德傳燈錄、高僧傳等,相互補訂,並附有對神會思想、行止與著作之論述,及其作品之勘誤。所收錄之敦煌寫本包括:神會語錄第一殘卷(伯希和第三○四七號前半)、神會語錄第二殘卷(菩提達摩南宗定是非論─伯希和第三○四七號後半)、神會語錄第三殘卷(伯希和第三四八八號)頓悟無生般若頌殘卷(史坦因第四六八號)。一九四九年,法國學者葛內特(Jacques M. Gernet)出版本書之法譯本,訂正本書六十餘處,並附有對全書語句之典據,及人名、地名等之考證。
民國五十七年,中央研究院胡適紀念館重新刊行胡適校敦煌唐寫本神會和尚遺集一冊,係增輯十九年版以後有關之原始資料及研究論文兩篇:「新校定的敦煌寫本神會和尚遺著兩種」、「神會和尚語錄的第三個敦煌寫本:『南陽和尚問答雜徵義,劉澄集』」。
新校敦煌本之原始資料有:南陽和上頓教解脫禪門直了性壇語(伯希和第二○四五號之第二件)、菩提達摩南宗定是非論(伯希和第二○四五號之第一件)、南陽和尚問答雜徵義(史坦因第六五五七號),以及五章「五更轉」等。
兩篇論文之要點:(一)「南陽和上頓教解脫禪門直了性壇語」一篇,係胡適以日人鈴木大拙於國立北平圖書館發現之「和上頓教解脫禪門直了性壇語」敦煌本,與伯希和第二○四五號第二件,互相校對而定之稿,為神會闡論「無念」禪旨之語,胡適並以壇語與六祖壇經之文字思想十分接近,而主張壇經出自神會之手。(二)「壇語」之後的「南宗定邪正五更轉」歌五章,及五言律詩一首,胡適認為是神會之作,故附錄之。(三)又以鈴木大拙所攝之伯希和第二○四五號照片,與「十九年版」內之伯希和第三○四七號、三四八八號兩種抄本合併,補全「菩提達摩南宗定是非論」一卷,指出此論係神會為南宗爭取禪門正統地位而作,因而考訂此論發表於開元二十年(732)滑臺大雲寺之無遮大會,且此論在當時流傳極廣。(四)復以日人矢吹慶輝所輯「鳴沙餘韻」內影印之史坦因第二九六號,與已有之史坦因第四六八號,補全「頓悟無生般若頌」(又稱「荷澤大師顯宗記」)。(五)又由於日人入矢義高發現史坦因第六五五七號,即與原有之伯希和第三○四七號合併,完成「南陽和尚問答雜徵義」一卷(又稱「南宗荷澤禪師問答雜徵」),並假設此卷即「荷澤和尚禪要」一卷。 p4256



------日文版 wiki 搞錯
陳垣(ちん えん)は清末から中華民国中華人民共和国にかけて活躍した歴史学者。中国宗教史研究の第一人者とされる。は援庵。
青年期は科挙を目標にしたが及第せず、1905年以降は広州で『時事画報』を創刊し、革命思想の宣伝に尽力した。
1907年博済医学院に入学する。1911年辛亥革命後、1913年には衆議院議員に当選、1921年には、中華民国教育部次長に任命されるが、後に政治腐敗に失望し政界を引退、北京に留寓して歴史研究と教育に従事することとなる。その時期に発表した『元也里可温考』は、宗教史・校勘学・考古学の各方面において等しく評価される名著とされている。
1926年から1952年まで、北京輔仁大学の校長を務め、1952年から没するまでは(輔仁大学が統合・改組された)北京師範大学の校長であった。
1959年中国共産党に入党、しかし文化大革命中には自宅軟禁された時期もあった。1971年6月21日に北京で死去。享年91。

主な著作[編集]

  • 『南宋初河北新道教考』
  • 『明季滇黔仏教考』
  • 『清初僧諍記』
  • 『通鑑胡注表微』
  • 『二十史朔閏表』
  • 『史諱挙例』
  • 『釈氏疑年録』
  • 『中国仏教史籍概論』
  • 『敦煌劫餘録』
  • 『神会和尚遺集』

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