劉安世愛用白話動詞
劉安世"巴攬"" 指"扣住/抓住/壓住"
"秤停"輕重
衡量斟酌。 元 张光祖 《言行龟鉴·政事门》:“而 吕寳臣 尤善秤停,每事之来,必秤停轻重,令得所而后已。”
元城先生盡言集 / 2001 (宋)劉安世撰 | 1 | ||
元城語錄解 三卷,附行錄一卷 馬 王 崔 于 | 2 | ||
元城語錄解 / / 馬永卿輯 |
時代 | 宋代 |
評論者 | 劉安世 |
出處 | 馬 永 卿 《 元 城 語 錄 》 卷 |
相關主題 | 尚待分類 |
篇名 | 不 著 錄 或 無 篇 名 |
評論內容 | ( 元 城 ) 先 生 因 言 及 東 坡 先 生 曰 : 「 士 大 夫 只 看 立 朝 大 節 如 何 , 若 大 節 一 虧 , 則 雖 有 細 行 , 不 足 贖 也 。 東 坡 立 朝 大 節 極 可 觀 , 才 高 意 廣 , 惟 己 之 是 信 。 在 元 豐 則 不 容 於 元 豐 , 人 欲 殺 之 ; 在 元 祐 則 雖 與 老 先 生 議 論 , 亦 有 不 合 處 , 非 隨 時 上 下 人 也 。 」 僕 又 問 : 「 東 坡 稱 先 生 喜 談 禪 , 何 也 ? 」 先 生 曰 : 「 非 也 。 北 歸 時 , 與 東 坡 同 塗 , 極 款 曲 , 故 於 暇 日 多 談 禪 。 某 嘗 患 士 大 夫 多 以 此 事 為 戲 。 且 此 事 乃 佛 究 竟 之 法 , 豈 可 戲 以 為 一 笑 之 資 乎 ? 此 亦 宜 戒 。 」 |
父劉航是進士出身,歷知虞城、犀浦縣。安世早年師從司馬光。熙寧六年進士,司馬光任宰相時,推薦劉安世到國史館出任要職,歷官秘書省正字、累進諫議大夫,論事剛直,人稱「殿上虎」。元佑四年,劉安世奏劾謝景溫:「天資姦佞,素多朋附。」徽宗即位後,知真定(河北西路,真定府),蔡京為相,又謫至峽州(荊湖北路)。宣和七年卒。諡忠定。
參考書目
劉安世
ja.goldenmap.com/劉安世 - Cached - Translate this page.. 劉安世(りゅう・あんせい、1048年-1125年)中国・北宋時代の官僚・学者。字は器之。
略伝
大名(北京大名府)の出身。1073年に進士に及第する。洛州司法参軍・河南府左軍巡判官をへて、哲宗即位とともに司馬光の推薦により秘書省正字に任ぜられ、呂公著の 推薦で右正言に抜擢された。さらに起居舎人と左司諫を兼ね、左諫議大夫と出世した。性質は剛直で当時の顕官を糾弾してやまなかった。呂恵卿が光禄卿に復せ られたとき、その不可を論じて恵卿を国の「巨蠧」(おおきいきくいむし)と罵り、鄧温伯が翰林承旨に任ぜられると、彼が王安石の党に出入りしたことを挙げ てその件を斥けた。他にも胡宗愈・蔡確・章惇・黄履・邢恕・李常・盛陶・王彭年などはみな安世の弾劾を蒙って降格された。
哲宗が親政を始めた1094年、新法派の章惇が宰相に任ぜられると、その不可を上奏した。これが僭越とみなされ、知南安軍、小府小監、分司河南と徐々に左遷され、1096年には新州別駕・英州安置にまで落とされた。章惇はさらに安世を誅殺しようとしたが偶然が重なり事なきを得て、梅州に移された。後、徽宗が即位すると、赦免されて集賢殿修撰・知鄆州・知真定府となったが、蔡京が宰相となると峡州に左遷され1102年には元祐党石碑(旧法派を「奸人」として裁くための名簿)に入れられた。のちに宮中に復帰して龍圖閣直学士となり78歳で没した。
学問と著作
司馬光に学んでその学統を承け、禅を好みその影響を受けている。元城先生と呼ばれその門下には呂本中を始め、孫偉・李光・胡珵・馬大年などがいる。『通鑑音義』10巻を著し『文集』20巻があるといわれたが長年伝わらず、明代の隆慶年間に張應福が奏箚類の鈔本を発見して『盡言集』13巻として刊行した。徽宗の頃の永城県主簿であった馬永卿が撰集した『元城語録』3巻に、明代の崔銑が『行録』1巻を編纂してこの語録に附した。
参考
- 『三朝名臣言行録』
- 『宋元学案』
- 楊万里『朝奉劉先生行状』
每次看先生引年譜長編心都很癢 真是難找的好書
回覆刪除東山兄.
刪除我去過您的BLOG 很精彩.
如果先生還有興趣購買. 我可代你問問聯經還有無存書.