2020,忽滑谷快天與與台灣佛教的關係,至今一直有論文。
(2014)
忽滑谷 快天(1867年12月26日-1934年7月11日),生於日本武藏國(今埼玉縣川越市),日本曹洞宗僧侶、佛教學者、陽明學家、東洋思想家、文學博士。在禪宗思想方面卓然成家,被稱為忽滑谷禪學、或忽滑谷派。
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東京駒澤大學為日本佛教大學中的一大重鎮,故台灣的佛教青年留學於該校 的,較之別個佛教大學很多,如這回台南開元寺所派的林秋梧氏亦負笈於此。其他今年度的新入生如董有為(台南)、吳瑞諸(北港)、李孝本 (台北) 諸氏等,俱皆是熱心的佛教青年,該校的同鄉先輩李添春、曾景來、高執德、莊名桂諸氏,睹此現象,不勝欣喜。------擇五月五日午後二時,在駒澤大學宿 舍舉行台灣學生會的成立式。並開岡部氏的歡迎會,於席上一同推戴該校學長〈即校長〉忽滑谷老師為會長,並請教授保 玉泉先 生為顧問,皆得其許諾。後又得了岡部氏承認為贊助員,眾大歡喜,至四時始散(30)。----忽滑谷快天對台灣佛教思想界的影響 - 佛學研究中心
胡適多次引起忽滑谷快天Kaiten Nukariya 的日文和英文著作:
佛教禪法的來源很古,《奧義書》(Upanishads)中已有禪定之法,其名為“瑜伽”(Yoga)(看忽滑谷快天《禪學思想史》上卷,39—52頁);此種書在佛教產生時已成為很有勢力的經典,故佛教不免受他的影響。---禪學古史考 (胡適 1928)----先天二年至建中二年,只有六十八年。但作者忽用建中二年為計算年數的本位,卻很可注意。日本忽滑谷快天先生(《禪學思想史)」上,382」說此句可以暗示《別傳》脫稿在此年。忽滑谷先生的話甚可信,我可以代他添一個證據。此傳說慧能臨死時,對門人說一則「懸記」:(預言)---《壇經》考之一: 跋《曹溪大師別傳》(胡適 1930)----胡適博士說,拿著一根拄杖,一個缽子,一雙草鞋,沿途乞食乞宿,這種行腳生活,會礪煉行腳者的身體與心智。這使得他能夠看到世界及各樣的人,其中包括當代偉大的智者,而這種方法會把他帶到一種地步,因著一件不重要的事情,而能突然頓悟。胡適博士結論說:「這樣的禪是不合邏輯、非理性和超乎我們智性理解的嗎?」他用十一世紀五祖法演禪師所說的一個故事來做回答,這是一個熟練的竊賊教訓他兒子繼承衣缽的故事。讀者可以在忽滑谷快天*所著的《武士的宗教》(The Religion of the Sumurai) 179-80頁見到,也可以在鈴木博士Essays in Zen Buddhism第一集的第一版296-97頁,第二版310-11頁見到。---禪宗在中國:它的歷史和方法 (胡適 1953)
忽滑谷快天(Kaiten Nukariya 1867-1934) 禪學思想史 /The Religion of the Samurai 《武士的宗教:中國與日本的禪學》『禅之妙味』/
今天收到教科書出版社來信,要求授權《武士的宗教》一書的內容,作為高中國文的閱讀教材。授權內容出自以下這段,也貼出來跟大家分享:禪僧與武士的心靈之勇氣與冷靜第四,眾所皆知,日本的武士以堅定不移的勇氣面對死亡。他永不逃走,和敵人戰至最後。對他而言,被稱為懦夫,是比死亡更大的羞辱。有一件和無學祖元有關的事件,發生在他接受執權北條時宗*邀請,在一二八○年到達日本之前。無學祖元對於禪僧與日本的武士有多麼相似做了很好的說明。該事件發生在中國,當時入侵的元軍將恐怖氣氛擴散至全國各地。一些野蠻人跨越了溫州州界,侵入祖元所在的能仁寺,並威脅要將他斬首。祖元鎮定地坐下,準備好面對他的命運,並做了以下這首詩:這使我們想起僧肇**,他在流浪漢的刀下,瀕死之前,以下面幾行文字表達他的情感:四大元無主,五陰本來空;將頭臨白刃,猶似斬春風。野蠻人因祖元這種平靜的決心與威嚴而感動,理所當然認為他是個不平凡的人物,所以離開寺院,沒有對他造成任何傷害。註釋:*北條時宗,大膽的政治人物和軍人,從一二六四至一二八三年,是日本真正的統治者。**僧肇,此人並非純粹的禪師,而是鳩摩羅什的弟子,三論宗的先驅人物。這是一個最顯著的證據,禪,尤其是臨濟宗,的確受到鳩摩羅什及其弟子的影響。有關軼事的細節,參見《五燈會元》。
-----二十八代說的師子比丘以下各代有兩種大不同的名單,忽滑谷快天早已指出了。我從前頗疑《景德傳燈錄》的二十八祖是契嵩追改的。但近年我細讀《寶林傳》,我才相信《傳燈錄》的二十八祖說完全是《寶林傳》、《聖冑集》等等偽書裡早已形成,早已決定的了。--1960.4.17 to : 入矢先生
The Religion of the Samurai (1913 original
text), by 忽滑谷快天Kaiten Nukariya, 2007 reprint by ELPN Press The Religion of the Samurai by Kaiten Nukariya ... - Project Gutenber
Wikipedia
忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん、慶応3年12月1日(1867年12月26日) - 昭和9年(1934年)7月11日)は、戦前日本の仏教学者、東洋思想家、陽明学者、曹洞宗の僧侶、文学博士。古代禅学及び東洋禅学思想史を研究し、禅仏教を内省主観主義として捉えた「忽滑谷禅学(忽滑谷派)」と呼ばれる禅道思想を確立した。大正天皇の御大礼仏教雑誌『星華』、『達磨禅』創刊者。道号は仏山。
曹洞宗大学が大学昇格時に駒澤大学に改まると、初代学長に就任。駒澤大学の建学の理念「行学一如」、その実践項目としての「信誠敬愛」を打ち立てた[1]。
経歴
武蔵国入間郡古谷村(現・埼玉県川越市)の善長寺従弟、多摩郡東村山久米川(現・東京都東村山市)に遠藤太郎左衛門の4男として生まれる。10歳の時、忽滑谷亮童の弟子として出家し名を快天と改める。1887年(明治20年)に曹洞宗大学林を卒業し、共立学校を経て、1888年(明治21年)に東京第一高等中学校(第一高等学校)に入学した。その後、一中を卒業後の1891年(明治24年)に、24歳で慶應義塾大学文学部に進学し、仏教学や実証主義学問を学ぶ。英語に堪能だったことから、最初の著作『Principles of practice and Enlightenment of the Soto Sect』は英語で出版した。明治26年(1893年)12月に慶應義塾大学文学部を卒業。
次いでPaul Carus(ポール・ケーラス博士)の『Buddhism and its Christian Critics』を翻訳出版。次いで、大乗仏教を展開した富永仲基の『出定後語』を出版。当時、多くの仏教学者たちが、大乗経典は信じる事ではなく、それを所依とした宗派は崩壊すると思っていたが、忽滑谷は逆に大乗の価値を大幅に見直し、批判精神による仏教の近代化を図った。
明治33年(1900年)、稲垣満次郎公使の斡旋により、仏舎利がシャム王室より日本の仏教徒に贈与されたこと期に、南条文雄とシャムに渡航。1901年(明治34年)に曹洞宗高等中学林の校長に就任。この時、学生服を法衣から着物に変えるなど大きな改革を断行。1905年(明治38年)には中国に存在していた『大梵天王問仏決疑経』を解説した論文を発表。これは、歴史的事実を否定し、禅宗の根本を揺るがすものだった。また、この時期にイスラーム研究や陽明学研究にも没頭し、イスラム教の開祖・マホメットの研究も始める。
1911年(明治44年)に忽滑谷は曹洞宗から、欧米への宗教学術視察の命を受けて3年間留学する。欧米留学へ向かう途中にハワイに宗教視察員として10日間ほど滞在し、その際にハワイ中学校、ポールシティー本願寺小学校等で講演を行い、サンフランシスコをはじめ各地において仏教講演会を行った。1914年(大正3年)に留学より帰国し、翌年に日本政府より文学博士号の国家学位を受ける。1919年(大正8年)に曹洞宗立大学教頭、1921年(大正10年)に学長に就任。曹洞宗立大学の大学令による旧制大学創立に尽力し、1925年(大正14年)には曹洞宗立大学を駒澤大学と改称して初代学長となった。
公職と研究の両方の面で充実する一方、多数の著作を発表。弟子は、国内のみならず中国や台湾、韓国など東アジア全体に及び、胡適や鈴木大拙、曹洞宗の岡田宜法や増永霊鳳、柳田圣山に継承されて「忽滑谷仏教学」と呼ばれる学派を形成するまでに至った。しかし、僧堂師家の原田祖岳とは、雑誌『公正』誌上(昭和3年9月号)で論争が起こったが、大学の学者である忽滑谷と僧堂の原田との嫉妬による確執であった。
忽滑谷の思想はその後、哲学、文学などの人文科学にとどまらず、物理学、生物学、天文学など、当時の最新の自然科学の知識を動員して仏教を論じ、岡田摘翠の『禅と催眠術』の序文を担当。忽滑谷の哲学的原理の帰結は、究極的な存在を宇宙そのものと見てついに「宇宙論」にまで達し、神秘主義的な天才的領域まで到達した。また、インド、中国を対象とし、その思想史的展開をまとめた大著『禅学思想史』を完成させた。
1934年(昭和9年)に東京で講演中、脳溢血のため倒れてそのまま亡くなった。
主な著書
- 『曹洞教会修証義』
- 『英文仏遺教経』
- 『雪裏の梅』
- 『大梵天王問仏決疑経に就いて』明治38年
- 『怪傑マホメット』
- 『白毫光』
- 『禅学講話』
- 『禅之妙味』
- 『禅学新論』
- 『参禅道話』
- 『達磨と陽明』
- 『清新禅話』
- 『楽天生活の妙味』
- 『宇宙美観』
- 『浮世荘子講話』
- 『禅家亀鑑講話』
- 『養気錬心乃実験』
- 『和漢名士参禅集』
- 『禅学新論』
- 『禅の理想と新人生の曙光』
- 『信仰と民力』
- 『無尽蔵』
- 『禅学思想史』 電子書[第1冊]上巻 大正12-14 [1923-1925]
- 『禅学思想史』 [第2冊]下巻 大正12-14
- 『普勧坐禅儀講話』
- 『正信問答』
正信問答 / [忽滑谷快天著] ; 林德林翻譯
臺中市 : 臺中佛敎會館, 昭和17[[1942] - 『錬心術』
書 |
禪學思想史
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江燦騰的說法,是對胡適1926年日記等的"誤讀"。
葛兆先,《且借紙遁:讀書日記選,1994-2011》,廣西師範大學,2014這本書,我2020年7月8日才認真地翻讀,範圍很廣,他能讀日文著作。有很多地方值得參考。他花8~10天讀《胡適日記 全篇》,五則筆記看法可參考,pp.107112。第3則:"胡適研究禪宗一生。台灣學者江燦騰說他是抄了忽滑谷快天的著作,這是吹求過苛之說。.....pp.110~111
Hu Shi and Kaiten Nukariya: Re-Exanining Hu Shi's Early Period Chan Research
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參考" 海峽兩岸現代性佛學研究的百年開展",臺南:『成大宗教與文化學報』第18期,2012.6,pp.143-78
特別是注24 (156頁)
http://bec001.web.ncku.edu.tw/ezfiles/335/1335/img/1682/P143-178.pdf
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