2016年12月25日 星期日

忽滑谷快天(Kaiten Nukariya 1867-1934) 禪學思想史 /The Religion of the Samurai / 對胡適禪學的"影響"

(2014)
忽滑谷 快天(1867年12月26日-1934年7月11日),生於日本武藏國(今埼玉縣川越市),日本曹洞宗僧侶、佛教學者、陽明學家、東洋思想家、文學博士。在禪宗思想方面卓然成家,被稱為忽滑谷禪學、或忽滑谷派。
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 東京駒澤大學為日本佛教大學中的一大重鎮,故台灣的佛教青年留學於該校 的,較之別個佛教大學很多,如這回台南開元寺所派的林秋梧氏亦負笈於此。其他今年度的新入生如董有為(台南)、吳瑞諸(北港)、李孝本 (台北) 諸氏等,俱皆是熱心的佛教青年,該校的同鄉先輩李添春、曾景來、高執德、莊名桂諸氏,睹此現象,不勝欣喜。------擇五月五日午後二時,在駒澤大學宿 舍舉行台灣學生會的成立式。並開岡部氏的歡迎會,於席上一同推戴該校學長〈即校長〉忽滑谷老師為會長,並請教授保  玉泉先 生為顧問,皆得其許諾。後又得了岡部氏承認為贊助員,眾大歡喜,至四時始散(30)。----忽滑谷快天對台灣佛教思想界的影響 - 佛學研究中心





 
 胡適多次引起忽滑谷快天Kaiten Nukariya 的日文和英文著作:

佛教禪法的來源很古,《奧義書》(Upanishads)中已有禪定之法,其名為“瑜伽”(Yoga)(看忽滑谷快天《禪學思想史》上卷,3952);此種書在佛教產生時已成為很有勢力的經典,故佛教不免受他的影響。---禪學古史考 (胡適 1928)
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先天二年至建中二年,只有六十八年。但作者忽用建中二年為計算年數的本位,卻很可注意。日本忽滑谷快天先生(《禪學思想史)」上,382」說此句可以暗示《別傳》脫稿在此年。忽滑谷先生的話甚可信,我可以代他添一個證據。此慧能臨死時,對門人說一則「懸記」:(預言)---《壇經》考之一: 跋《曹溪大師別傳》(胡適  1930)

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胡適博士說,拿著一根拄杖,一個缽子,一雙草鞋,沿途乞食乞宿,這種行腳生活,會礪煉行腳者的身體與心智。這使得他能夠看到世界及各樣的人,其中包括當代偉大的智者,而這種方法會把他帶到一種地步,因著一件不重要的事情,而能突然頓悟。胡適博士結論說:
   「這樣的禪是不合邏輯、非理性和超乎我們智性理解的嗎?」他用十一世紀五祖法演禪師所說的一個故事來做回答,這是一個熟練的竊賊教訓他兒子繼承衣缽的故事。讀者可以在忽滑谷快天*所著的《武士的宗教》(The Religion of the Sumurai) 179-80頁見到,也可以在鈴木博士Essays in Zen Buddhism第一集的第一版296-97頁,第二版310-11頁見到。---禪宗在中國:它的歷史和方法 (胡適 1953)
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二十八代說的師子比丘以下各代有兩種大不同的名單,忽滑谷快天早已指出了。我從前頗疑《景德傳燈錄》的二十八祖是契嵩追改的。但近年我細讀《寶林傳》,我才相信《傳燈錄》的二十八祖說完全是《寶林傳》、《聖冑集》等等偽書裡早已形成,早已決定的了。--1960.4.17  to : 入矢先生





The Religion of the Samurai (1913 original text), by 忽滑谷快天Kaiten Nukariya, 2007 reprint by ELPN Press The Religion of the Samurai by Kaiten Nukariya ... - Project Gutenber







Wikipedia
忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん、慶応3年12月1日1867年12月26日) - 昭和9年(1934年7月11日)は、戦前日本仏教学者東洋思想家陽明学者曹洞宗僧侶文学博士。古代禅学及び東洋禅学思想史を研究し、禅仏教を内省主観主義として捉えた「忽滑谷禅学(忽滑谷派)」と呼ばれる禅道思想を確立した。大正天皇の御大礼仏教雑誌『星華』、『達磨禅』創刊者。道号仏山
曹洞宗大学が大学昇格時に駒澤大学に改まると、初代学長に就任。駒澤大学の建学の理念「行学一如」、その実践項目としての「信誠敬愛」を打ち立てた[1]

経歴

武蔵国入間郡古谷村(現・埼玉県川越市)の善長寺従弟、多摩郡東村山久米川(現・東京都東村山市)に遠藤太郎左衛門の4男として生まれる。
10歳の時、忽滑谷亮童の弟子として出家し名を快天と改める。1887年(明治20年)に曹洞宗大学林を卒業し、共立学校を経て、1888年(明治21年)に東京第一高等中学校第一高等学校)に入学した。その後、一中を卒業後の1891年(明治24年)に、24歳で慶應義塾大学文学部に進学し、仏教学実証主義学問を学ぶ。英語に堪能だったことから、最初の著作『Principles of practice and Enlightenment of the Soto Sect』は英語で出版した。明治26年(1893年)12月に慶應義塾大学文学部を卒業。
次いでPaul Carus(ポール・ケーラス博士)の『Buddhism and its Christian Critics』を翻訳出版。次いで、大乗仏教を展開した富永仲基の『出定後語』を出版。当時、多くの仏教学者たちが、大乗経典は信じる事ではなく、それを所依とした宗派は崩壊すると思っていたが、忽滑谷は逆に大乗の価値を大幅に見直し、批判精神による仏教の近代化を図った。
明治33年(1900年)、稲垣満次郎公使の斡旋により、仏舎利がシャム王室より日本の仏教徒に贈与されたこと期に、南条文雄とシャムに渡航。1901年(明治34年)に曹洞宗高等中学林の校長に就任。この時、学生服を法衣から着物に変えるなど大きな改革を断行。1905年(明治38年)には中国に存在していた『大梵天王問仏決疑経』を解説した論文を発表。これは、歴史的事実を否定し、禅宗の根本を揺るがすものだった。また、この時期にイスラーム研究や陽明学研究にも没頭し、イスラム教の開祖・マホメットの研究も始める。
1911年(明治44年)に忽滑谷は曹洞宗から、欧米への宗教学術視察の命を受けて3年間留学する。欧米留学へ向かう途中にハワイに宗教視察員として10日間ほど滞在し、その際にハワイ中学校ポールシティー本願寺小学校等で講演を行い、サンフランシスコをはじめ各地において仏教講演会を行った。1914年(大正3年)に留学より帰国し、翌年に日本政府より文学博士号の国家学位を受ける。1919年(大正8年)に曹洞宗立大学教頭、1921年(大正10年)に学長に就任。曹洞宗立大学の大学令による旧制大学創立に尽力し、1925年(大正14年)には曹洞宗立大学を駒澤大学と改称して初代学長となった。
公職と研究の両方の面で充実する一方、多数の著作を発表。弟子は、国内のみならず中国や台湾韓国など東アジア全体に及び、胡適鈴木大拙、曹洞宗の岡田宜法増永霊鳳柳田圣山に継承されて「忽滑谷仏教学」と呼ばれる学派を形成するまでに至った。しかし、僧堂師家の原田祖岳とは、雑誌『公正』誌上(昭和3年9月号)で論争が起こったが、大学の学者である忽滑谷と僧堂の原田との嫉妬による確執であった。
忽滑谷の思想はその後、哲学文学などの人文科学にとどまらず、物理学生物学天文学など、当時の最新の自然科学の知識を動員して仏教を論じ、岡田摘翠の『禅と催眠術』の序文を担当。忽滑谷の哲学的原理の帰結は、究極的な存在を宇宙そのものと見てついに「宇宙論」にまで達し、神秘主義的な天才的領域まで到達した。また、インド、中国を対象とし、その思想史的展開をまとめた大著『禅学思想史』を完成させた。
1934年(昭和9年)に東京で講演中、脳溢血のため倒れてそのまま亡くなった。

主な著書


加入個人書架

禪學思想史
叢書名禪學思想 ; Z9201-Z9205.

快天 郭敏俊


台北縣汐止市 : 大览出版 ; 臺北縣新店市 : 飛鴻國際總經銷 民92[2003]

可在 總圖  (226.6 2738-1 v.5 )獲得



禪學思想史

快天


東京市 : 玄黃社 大正12-14[1923-1925]

可在 辜振甫圖書館  ((U) 294.3 2738 v.1 )獲得 有其他館藏地

禪學思想史

快天


東京市 : 玄黃社 大正12-14[1923-1925]

可在 辜振甫圖書館  ((U) 294.3 2738 v.1 )獲得 有其他館藏地

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Hu Shi and Kaiten Nukariya: Re-Exanining Hu Shi's Early Period Chan Research
胡適與快天:再探胡適早期禪學研究問題

江燦騰(Tsan-Teng Chiang)

漢學研究通訊, 2011-11-01, 30卷4期 (Vol.30, Issue 4), pp.1-10



江燦騰教授認為胡適之先生受到忽滑谷快天的禪學著作的啟發:神會和尚.....
參考" 海峽兩岸現代性佛學研究的百年開展",臺南:『成大宗教與文化學報』第18期,2012.6,pp.143-78
特別是注24 (156頁)
http://bec001.web.ncku.edu.tw/ezfiles/335/1335/img/1682/P143-178.pdf

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