2011年8月6日 星期六

Inoue Tetsujiro 井上 哲次郎(

胡頌平《胡適之先生年譜長編初稿‧第5冊》台北:聯經,1984,頁1773
2 日本人可更正之

Shiratori Toshio

白鳥敏夫(1887年-1949年),生於日本千葉縣,畢業於東京大學法學部,日本帝國時代外交家,二戰甲級戰犯

大學畢業後,1914年進入外務省,先後在香港、美國、中國和德國等地任職。

1930年任外務省情報部部長。

九·一八事變後,同外務省書記官長森恪和陸軍省的鈴木貞一等人,主張日本退出國際聯盟,並支持在中國東北建立傀儡政權。

1938年,他就任日本駐義大利大使,期間向日本政府施加影響,力促結成日德意軸心國三國同盟

1948年被遠東國際軍事法庭判為甲級戰犯,判處無期徒刑。1949年6月3日,在服刑期間病死。1978年10月被靖國神社合祀。






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井上 哲次郎

井上 哲次郎(1856年2月1日-1944年12月7日),號巽軒,生於筑前國,日本著名哲學家,活躍於明治時期,曾任日本東京帝國大學、東洋大學教授。

[編輯] 生平

1884年至德國留學,學習哲學,1890年回國。他創造了形上學的漢語譯名。


井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、1856年2月1日安政2年12月25日) - 1944年昭和19年)12月7日)は明治時代に活躍した日本哲学者であり、1884-90年、7年近くドイツ留学。欧米哲学を多く日本に紹介し、帝国大学で日本人で初めて、哲学の教授(1890-1923年)となった。また、新体詩運動の先駆者でもある。1895年、東京学士会院会員に任命された。号は巽軒。通称「井の哲(イノテツ)」。筑前国生まれ。

目次

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人物 [編集]

井上円了が在野の哲学者だとすれば井上哲次郎は東京帝国大学というアカデミズムの牙城の哲学者である。国家主義の立場から宗教に対する国家の優越を強力に主張し、第一高等中学校教員であった内村鑑三教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼はおこなわなかった不敬事件に際してはキリスト教を激しく非難し、植村正久と論争する。またそれ以外にも体制側のイデオローグとして明治日本政府の道徳主義の思想界における切り込み隊長となった。 しかしながら、国民道徳としての『教育勅語』には限界を覚え、世界道徳を説くに至り、現実即実在論を援用して、国民道徳と世界道徳との矛盾を解消しようとした。

晩年、筆禍事件を起こして不敬罪に問われ、公職を辞職。

東京帝国大学東洋大学で教授。外山正一矢田部良吉らと『新体詩抄』を刊行し世間に名を知られる。仏教からヒント得て現象即実在論を提唱。1924年10月から1925年11月まで、初代の貴族院帝国学士院会員議員を務めた。

哲学用語である「形而上」(Metaphysical) の訳者としても知られる。

孝女白菊詩 [編集]

東大卒の井上哲次郎が、西南戦争の済んで間もない1880年明治13年)- 1881年(明治14年)頃、ドイツ留学をはばまれ憤懣やるかたなく、空想のおもむくままに書きまくった漢詩で完全なフィクションである。1884年(明治17年)発行の「巽軒詩抄(金編)」に採録されている。内容は西南戦争で行方不明になった父を慕う孝女の話である。これに刺激を受け、落合直文孝女白菊の歌を作り、全国的に感涙の涙を絞った。独訳英訳もされた。現地の阿蘇には碑や墓などが、関係ない処に作られている。[1]

関連項目 [編集]

文献 [編集]

  1. ^ 内田守「珠を掘る」 1972年

外部リンク [編集]

http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/publications/pdf/UTCPBooklet14_04_Dufourmont.pdf

Japan encyclopedia - Google 圖書結果

books.google.com/books?isbn=0674017536...Louis Frédéric - 2005 - History - 1108 頁
Inoue Ryokai 390 Nichiren follower in 1 92 1 , he took the family name ... him, Inoue Tetsujiro. Writer and philosopher (1855- 1944), born in Fukuoka. ...

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